20代最後の挑戦、100日間の決意


 
 
 
こんにちは!
小川光一です!
 
 
 
なんだか今日で、「30歳の誕生日まで残り100日」らしいので、殴り書きですいませんが、ちょっとした決意を残しておきます(`・ω・´)
 
 
 
大学卒業してから7年間。スーパー短くまとめると、世界各地に赴きながら、アフリカは頻繁に通いながら、映画2本作って賞取って、下北沢にカフェバー作って、東北住み込んで、47県全てで講演しまくって、本2冊出版した。今月末に更に1冊出版する。
 
この7年間を長かったか短かったかと聞かれたら、今となってはスーパー短かったと思える。20代でこのキャリア密度、過去にも未来にも「他の人が歩くことのない道のり」であるのは間違いない。
 
誰にだってチャンスは巡って来るのに、理由をたくさん並べてはそれを掴まない人が、あまりにも多過ぎる。そんな中で、僕は目の前に転がって来た「縁」をとにかく大事にして生きて来た。でも、それが本当に本当に大事だったんだなと今になって強く思う。
 
 
 
かなり滅茶苦茶なレールを創りながら、20代とかいうかたまりを費やしてきました。大した貯金なんてない。まっとうな社会人をやっているやつには生きざまを羨ましがられたり、人によってはバカに思われたりしている。
 
僕からすれば、まっとうに働き、お金を溜めて、結婚して、子どももいる同級生なんかを羨ましく思って仕方がないし、自分がバカだと思う瞬間なんて毎日ある。でも、結局はないものねだりで、どんな生き方をしたって、選ばなかった道に羨望するものだから、これはこれで良いのかもしれない。
 
 
 
僕は今日から100日後、5月29日に30歳の誕生日を迎えます。30代をどう生きていくかは残念ながらまだ決まっていない。正直なところ、あまり体力が残っていないので、20代の時ほどアグレッシブには生きられないのは確実ではある。かわいい犬を飼いながらのんびり内職とかしていたい笑。その新しい10年間については後々考えるべき時に考える。
 
とりあえず今はひとつ、また大きな「縁」が目の前に転がって来ている。ブログで前にも書いたけど、小説を出版できるというチャンスです。その内容や経緯はタイミングを見てまた公表するとして、アフリカ本の執筆が完全に終わった今だからこそ、本格的に着手できる状況だったりします。
 
 
 
小説なんて書いたことない。センスがあるかも分からない。でも、書きたい理由がある。チャンスが目の前にある。今年の夏から半年くらい海外に行くことを前々から決めていたので、もし夏までに出版できないと、これは1年後の話になります。
 
時間をかけ過ぎると、様々な意味合いでチャンスや熱量は削られていくってことを、僕はよく知っている。そういう意味では「20代最後の闘い」として、今日から始まる100日間を費やしてもいいんじゃないかと思っている。出版自体は30歳になってからだけど、「小説に全身全霊を注ぐ100日間」も悪くないんじゃないかと。
 
 
 
 
自分で言うのもなんですが、僕はとにかく有言実行する人間です。もちろんその有言実行に向けて血が滲む努力を重ねるわけですが、実はこれにはカラクリがあって、「自分の頭の中に成功イメージを描けないものは宣言しない」ようにしているんです。そりゃあ有言実行率は高まるわけだ。姑息だけど、これがリアル。
 
「こんな映画を作って、こんなメッセージを全国に伝える」とは宣言しても、「こんな映画を作って、アカデミー賞を取る」とは宣言していない。「カルカソンヌ日本選手権で、ベスト4に入る」とは宣言しても、「カルカソンヌ日本選手権で、無敗優勝する」とは宣言していない。
 
もちろん映画を作ることもベスト4に入ることも大変で、死ぬほどがんばったんだけどさ。自分にとって無謀なことを、決して短期的には目指さない。
 
 
 
 
人生において自己認識力が何より大切だと思っている。今の自分にはどれだけの能力があって、何ができるか、何ができないか。キャパシティーはどのくらいの体積なのか。
 
無謀過ぎる目標を設定しては失敗して、それで自分に自信がなくなったり周りのせいにするなんて、ばかばかしい。無謀過ぎる量の活動を抱えて破裂して、それで周りに迷惑をかけたり自分に苛立つなんて、ばかばかしい。
 
死ぬ気で頑張りさえすればちゃんと達成できそうな体積の目標を設定する。それをクリアしながら、自分のキャパシティをじわじわ広げていく。そんな風に生きていく方法を、僕は身に付けてきたと思う。
 
 
 
さて、いま目の前にある選択肢「100日間で小説を書く」。今回の目標は有言実行できるかと言われるとかなり危うい。書きたい内容がただでさえ難しいっていうのもあるけど、自己認識の結果「僕にはまだ小説を書く能力がない」と思えるから。
 
20代最後の挑戦に100日間かけて、成功しなかったら、僕はかなり気持ちが滅入ると思う。まっとうに生きることへの憧れが、僕の心中で暴れ出して、自分が費やした100日間の月日をひどくばかばかしく思うに違いない。
 
 
 
けれど、成功しても、失敗しても、僕の「幅」は広がるというイメージはある。小説に対して、血が滲むほど努力を重ねるモチベーションもある。さっきの僕の発言とは少し矛盾するけど、実業家の土光敏夫さんの言葉にこんなものがある。
 
「やるべきことが決まったならば執念をもってとことんまで押し進めよ。どうにかできなかった時、問題なのは、能力の欠如ではなく、執念の欠如である。」
 
最終的には、執念があるか、ないか。これも真理のひとつに間違いない。今までの有言実行の多くも、それなりの努力でひょいっと達成してこれたかと言われると、決してそんなことはなくて、自分の執念にかなり助けられてきた一面はあると思う。今回はその執念量がいつもよりも多めに必要なだけなのかもしれない。
 
 
 
いずれにしても僕は、
100日間をかけて
「小説を書く技術を身に付ける」
「実際に小説を1つ書き上げる」
 
この挑戦に、
本気で取り組んでみようと思います。
 
 
 
30歳の誕生日まで、京都の1人暮らしのアパートに徹底的に籠って、小説というものと対峙する。そのあと2~3ヶ月かけて、出版社の人と編集作業を行う。きっと苦しい日々になるだろうけど、今までとは苦しみの質が違うっていうのが何より大きい。
 
今までは、カンボジアのエイズ/アフリカの貧困/日本の災害などの人の生きる死ぬに向き合う苦しみ。映像や本などのゼロから作品を生み出すという苦しみ。なかなか伝わらないメッセージを伝えようともがく苦しみ。不安定な生活/周りからのプレッシャー/孤独感という私生活的な苦しみ。苦しみの四重奏が、とにかく僕を蝕み続けてきました。
 
でも、今回は違う。生きる死ぬに向き合う苦しみがない。津波の映像を0.1秒単位で永遠と編集したり、上映の度に津波の映像を見なくていい。死にゆく人にカメラを向けたり、その実際に死んだ人のことを執筆しなくていい。今となっては、よくもまあ感受性の強いガラスの心で、苦しみに四方を囲まれながら7年間も闘い続けたな、と自分をほめてあげたいけど、つまりはそういうことだ。
 
この挑戦が良い方向に転んで、僕が10冊20冊と小説を書き続ける将来があれば、その時は災害や貧困、世界の社会問題にリンクする小説を書く未来は大いに予想できる。きっとその時はまた、人の生きる死ぬに苦しむのだろうけど、少なくとも今回は違う。小説を書くことに純粋にワクワクできている自分がいる。この違いはあまりにも大きい。
 
 
 
そんなこんなで、我ながらとても中二っぽいけど、数年後にはこんな僕もいないかもしれない。なけなしの能力と執念を燃やして、ひーひー言いながらがんばります。
 
1週間後くらいに発売される自身3冊目となる本(これはエッセイです)の広報や、確定申告など、色々と時間は取られるけれども、今日から100日間ひたすら小説というものに時間を注ぎます。
 
20代最後の挑戦、ふぁいお。
 
 
 
3000文字も書き殴ってしまった笑。
最後まで読んでくださった方、
ありがとうございました!!
 
 
 
小川光一