一矢





こんばんは。
小川光一です。
 
 
 
 
 
僕が監督を務めた映画、
 
陸前高田ドキュメンタリー
『あの街に桜が咲けば』
 
 
 
 
 
陸前高田市内の津波の最高到達点に桜を植えることで、後世に減災意識を伝承していく地元の人々を追った物語。
 
脅しの防災教育は意味がないと多くの専門家が論じる中で、僕は暖かい自然と防災対策したくなっちゃうような、そんなアプローチの仕方ができればと思って、そういう雰囲気の映画内容になってる。
 
 
「もし自分の街で
災害が起きた時、
あなたは大切な人を
守ることができますか?」
 
というテーマで作った
被災地ドキュメンタリーです。
 
 
なので、全然、
いわゆる被災地ドキュメンタリー
ぽくないねとよく言われますが。
 
  
 
 
 
 
実は
そんな『あの街に桜が咲けば』、
通称「あのさく」
 
(「あの咲く」ではない。
それだったら「あの咲け」にしてる)
 
 
 
 
 
11月29日(土)
 
「累計上映数 100会場」
「累計概算動員数 10000人」
 
2つの記録を突破することが出来ました。
 
 
 
 
 
陸前高田で亡くなった約1800名の方に、
改めて追悼の意を表すると共に、
 
少しでもその死を無駄にしない活動を
僕が今出来ているのなら本望に思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
実は時を同じくして、
鹿児島上映や青森上映が来年1月2月に決まり、
 
「累計上映都道府県数 30県」
 
この記録の突破も内定されましたりもして。
 
 
 
 
 
 


 
 
映画を観に来てくださった皆さま
 
 
主催してくださった皆さま
 
 
上映や会場に協力してくださった皆さま
 
 
製作に協力してくださった皆さま
 
 
桜ライン311の皆さま
 
 
陸前高田市の皆さま
 
 
沢山の方に心から感謝いたします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10000人達成だけに
 
 
「万感たる思い」とは
まさにこのことで
 
 
 
数え切れない想い出や
感謝したい方の顔が浮かびます。
 
 
 
生憎その数が多過ぎるので
 
年末辺りに1人1人に
ゆっくり丁寧に
ご連絡できればと思います。
 
真面目に数千人いるので、
送れなかったらごめんなさい…
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて、少しこの3年半を
さらっと思い返してみる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
震災直後、
陸前高田に両親がいた親友のために
 
僕は陸前高田を選んだ。
 
必死で支援活動に動いた。
 
 
 
 
  
2012年1月、
設立からまだ3ヶ月の
桜ライン311に出会った。
 
深く意気投合して、
 
2013年1月から
僕は再び住み込むようになった。
 
 
 
 
 

映画のゼロからの作り直しや
自分の立場の存在意味など
しんどいことが一杯あった。
 
ここになんて書き切れない。
 
 
 
でも、僕の意志ははっきりしていた。
 
 
 
 
 


「桜ライン311の応援がしたい。」
 
 
 
「もう人が災害で死ぬのは嫌だ。」
 
 
 
「大切な人たちの街である陸前高田市に
少しでも貢献したい。」
 
 
 
「外から支援者はいっぱい来るのに、その人たちが自分たちの防災とかは全然考えてない。言われても真に受けない。そんな姿を何年も陸前高田で見続けていて、いい加減イライラする。」
 
 
 
「桜ライン311の姿を通して、全国の減災意識を喚起したい。その結果、回りまわって桜ライン311や陸前高田に支援が届いて欲しい。」 
 
 
 
 
 
 
これもここに挙げれないくらいの理由が沢山ある。どんなに辛くても途中で投げ出す気には到底ならなかった。それは今でも変わらない。
 
芸術系の人の多くは作ることに多くのエネルギーを要して、完成の時点で燃え尽きてしまうことが多いけど、でも、この映画こそ、1人でも多くの人の心に届けてこそって思ってた。
 
  
 
 
  
 
2014年1月に映画は完成。
 
幾つかの試写や特別上映を行い
(2月は僕がアフリカに居たので)

2014年3月から全国上映スタート。
 
  
 
 
 
 
3月はやはり震災のあった月。
 
20回もの上映が主催された。
 
 
 
 
 
でも4月の上映数は8。
 
 
 
 
ぶっちゃけた話、
僕はこれで終わると思ってた。
 
 
最初の数ヶ月くらいで
もう上映依頼は終わると思ってた。
 
 
 
 
 
やっぱり周りを見渡して見ても、全然上映依頼の入って来ないインディーズ映画ばかり。監督やスタッフさんが必死に営業して回っている姿をよく見る。僕は「熱量を共にしないと良い上映イベントにはならない」とカンボジアの映画の時に学んだので、よっぽどのことがないと自分から進んで営業はしないと心に決めていたのです。だからもう上映依頼は終わると思ってた。
 
 
 
 
 
 
でも僕の予想は良い意味で外れた。
 
 
 
 
 
 
この映画の一番ダントツで多い感想は
 
 
 
「もっと友達連れてくれば良かった」
 
「家族と来れば良かった」
 
「自分の街でも上映したい」
 
 
 
つまり、
 
 
映画を自分の周りの人にシェアしたい
 
 
だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
凄く良い雰囲気のイベントが開催される度に
絶対に来場者の中から次の主催者が現れる。
 
 
この現象が地味にこの9ヶ月ひたすら重なった結果が
100回上映につながったんです。
 
(勿論別ルートの依頼もあったけどね)
 
 
 
 
  
 
 
今も実は102回まで行われていて、
 
まだ23回の上映が2015年3月までに入ってる。
 
 
 
 
 
(それ以降の依頼は現在保留してます、
すいません。

2015年3月までです。)
 
 
 
 
 
本当にこの9ヶ月。
 
よくもまあ自分の身体が
もってくれたと思う。笑
 
心配してくださった
沢山の人にも感謝したい。
 
そのくらい日頃の生活の狭間でこのスケジュールはハードを極めた。100会場ってことは200回の移動だからね。飛行機とか深夜バスとか新幹線とか鈍行列車とか。そしてそれ以外の時間で海外とかにも行ってるからね。よくやるわ。
 
 
あと4ヶ月は耐えないと。
 
 
 
 
 
 
 
そんなこんなの102回、
 
9割5分以上は僕も会場に赴き講演した。
 
 
 
1会場1会場に想い出がある。
 
 
 
 
企業における社内上映は7社で行われた。
 
さすがは大人なので、見た後にすぐ陸前高田市に行っちゃうような人が多くて、有り難かった。
 
 
 
 
小中高における授業上映は4校。
 
茨城、東京、埼玉、福岡。
それぞれ忘れられない体験になった。
 
もう打てば打った分響くしね。
  
やっぱりこれからの日本の減災意識は、今の子供たちが担っていく訳で、もっと開催できれば良かったなって思う。
 
 
 
 
大学での上映は、大学主催・学生主催を含めてなんと23校もの場所に伺った。
 
東京農業大学/熊本大学/明治学院大学/お茶の水女子大学/明治大学/日本大学/筑波大学/大阪教育大学/関西大学/東京都市大学/エリザベト音楽大学/神奈川大学/東京薬科大学/白鴎大学/追手門学院大学/高知大学/鶴見大学/関西学院大学/大阪国際大学/立命館アジア太平洋大学/秋田看護福祉大学/宮城教育大学/法政大学
 
 
東京薬科大学のみんなは2回も開催してくれたし、関西大学は千里山と高槻の2キャンパスで上映した。日本大学は国際関係学部での開催で、まさかの母校凱旋。上映前に4年間お世話になった教授にばったり出くわした。
 
 
 
 
そして、
 
NPOのような団体セクターや
行政(市役所開催)、
有志による開催が一番多く、
 
とても熱いものだった。
 
 
 
大分なんかは
国東市大分市臼杵市で
3日連続上映もした。
 
国東市長と対談したり、
覆面レスラー政治家と対談したり。
 
 
 
福岡では1回思いっきり滑った上映会がリベンジされて、2回目では僕の映像の恩師である関根健次さんと対談することができた。
 
 

愛媛の松山、大分の別府、北海道の夕張では、
老舗の映画館で上映した。
 
渋谷でもUPLINKで5回も
上映していただいた。
 
 
 
山口でも壮大な市民上映を字幕や手話を付けて開催していただいたり、東京ではフィリピンの台風被害のチャリティーイベントも開催された。
 
 
 
山梨でもカフェとお城で開催してもらったり、東京都美術館やシェアワーキングスペースや本当に色んな場所で熱いイベントを上映してもらった。和歌山では幼稚園なんかでも。
 
 
 
 
8月にALL鎌倉映画祭2014に選出していただいた。
 
もっと自分から色んなのに応募しておけば良かった。
 
 
 
全部書ききれなくて
ごめんなさい。
  
決して印象順ではないので
ここに書かれなくても気にしないで。
 
 
 
それぞれの会場で
大きな出会いが沢山あって
今も連絡を取ってる人たちがいる。
 
邂逅って言葉が好きになった2014年。
 
 
 
 
この10000人動員は、
僕よりもむしろ
この100会場それぞれの
主催者やスタッフが
成し遂げた記録だと
正直思ってる。
 
感謝だらけで、
只管頭が上がりません。
 
 
関わってくださった皆さま、
ありがとうございました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
とりあえず。
 
記念すべき100回目の会場が、
高田駅(高田地域)っていう
まさかの高田が付く場所で
 
それがビビりました。
 
 
 
ただ、不思議な縁に
「ぐおーーーー」ってなったけど、
正直実感は全然沸かなくて。
 


 
実は翌日の101回目の
山口県宇部市が僕の実感だったんです。 
 
 
会場によっては
東日本大震災で亡くなられた方に
最初に1分間の黙祷を捧げるのですが、
 
 
そこでした。
 
 
 

 
 
 

 
 
 

 
 
 
 
まず、実は僕
震災で仙台の友人を亡くしてて。
 
 
 
 
それでも身近な大切な人である慧を支えることに決めて、陸前高田を選んで今までやってきて。その街にも大切な人を亡くした人が沢山いて。
 
 
 
 
陸前高田で亡くなった人の中に、僕が震災前から直接知る方は居なかったけど、でもやっぱり陸前高田に住んでて、沢山話も聞いて、その人たちへの想いは僕の中でも強くなってて。
 
 
 
 
 
 
「亡くなった人のため」
っていう感情を
 
自然とこの映画の中に
込めていた自分がいたんだと思う。
 
 
 
 
 
 
この1分間の黙祷の中で、
 
その仙台の友人と、
 
約1800名の陸前高田で
命を落とした方々に
 
 
「がんばったよ」
 
 
 
って伝えたんです。
 
 
 
 
 
そしたらカーっとなっちゃって、
 
 
 
 
人前で泣くの大嫌いなんで
めっちゃ堪えたんですけど
思わず涙出て必死に隠しました。
 
 
 
 
そして上映中に静かに控室に逃げて
そこで泣きました。
 
 
 
 
 

 
ある人は、
 
お前はつまらない
 
って僕に言いました。
 
 
 
一番言わないで欲しかった
とても大切な人でした。 
 
 
 
 
 
ある人は、
 
こんなことしたって日本の意識なんて変わらんぞ、無意味だ
 
って僕に言いました。
 
 
 
広島で土砂災害気を付けてって500人に話した後に実際起きて、日本は火山が危ないから気を付けてって数千人に話した後に実際起きて、甚大な被害が出た以上、無意味なのかもって思わざるを得ませんでした。
 
 
 
 
 
 
でも、
 
 
ある人は、
 
映画の上映後に
そのままドンキホーテに寄って、
 
「防災バッグ作りました!」って
 
写メを送ってくれました。
 
 
 
 
ある人は、
 
後日、恋人や家族を連れて
 
「大切な人連れて来ましたよ」って
 
再び映画を見に来てくれました。
 
 
 
 
 
ある中学生は、
 
僕の不登校時代の話を講演で聞いて、
 
「がんばって学校通う」って
 
決意したとのことでした。
 
 

  
 
あのさくを上映する度に
嬉しい報告が入ってくる。
 
 
 
 
 
生きることには
絶望も希望も両方沢山あって、
 
 
 
 
 
僕は一喜一憂しながら
これからも進んでいくけど、
 
 
 
 
 
僕はネガティブだから、
誰になんて言われようと、
 
自分のやってることに
意味がないって思う瞬間だらけだけど、
 
 
 
 
 
そんな僕の感情なんて関係なく、
 
 
 
 
 
何処かの街で
災害が起きた時に、
 
「この映画を見て、
災害について
考えるようになって
大切な人を守れました」
 
って人が1人でもいたら
 
 
それでいい。
 
 
 
 
 
もうずっと言ってる言葉だけど、
これをこの映画の
成果として貫きたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
僕は人が死ぬのが
大嫌いだから
 
 
 
 
大嫌いで仕方ないから
 
 
 
 
 
これからも叫ぶよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
どうか残り4ヶ月。
 
 
1人でもいいから
ほんと多くの人に
 
映画と僕の話を
視聴して欲しいって思います。
 
 
ぜひ友達や家族、
恋人なんかに声かけて
 
会場に足を運んでください。
 
 
 
http://anosaku.ifdef.jp/schedule.html

 
 
 
 
 

 
ちょっとでも一矢が
報われたらいい。
 
 
 
 
 
 
そして燃えるだけ燃えて、
 
燃え尽きるぎりぎりの状態で、
 
来年の春に、
 
東北の桜を観に行こっと。